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プロ野球の助っ人外国人のおもしろ(ダメダメ)エピソード




プロ野球の助っ人外国人の
おもしろ(ダメダメ)エピソード


日本プロ野球に入団した、助っ人外国人たちのおもしろエピソードのまとめです。


読売ジャイアンツ

カルロス・トーレス
2011年5月1日、横浜戦で先発した際に4回2死から突如制球が定まらず、


6番吉村から4者連続四球を与え、3回2/3を5失点で降板した。



「人類史上、あんなに続けて歩かせることはそうそう起こることではない」と独特の言い回しで悔しさをにじませた。





ラスティ・ライアル
2011年9月3日のヤクルト戦。代打として打席に立ち、見逃し三振に倒れた。



その後、ピッチャーと変わったため守備につくことがなく、その試合は1打席のみの出場だった。するとその試合の終了を待たずに、クラブハウスへ戻ってしまった。



10月1日、球団はライアルとの今シーズンの契約を解除しました。



ブライアン・バニスター
2011年1月7日、読売ジャイアンツに1年契約で入団したが、東日本大震災直後の3月15日に球団に無断で帰国、

同月末に「再来日の意思がなく引退する」と連絡があった。

4月2日に制限選手となり、同月末には、当人から「いかなる場所でももう野球はやらない」と通告があり、4月26日に任意引退しました。




ダン・ミセリ
2005年、読売ジャイアンツに入団。

4月1日、4月5日と連続救援失敗。二軍で再調整することをミセリに促すが、「本人の同意なしに二軍に落とすことが出来ない」という契約条項を盾にミセリが拒否。


4月6日の横浜戦では延長11回に巨人が1点リードしてセーブ条件が整ったため、横浜ファンから「ミセリコール」が巻き起こった。



開幕から1ヶ月も経たない4月19日に球団史上最速で解雇に至った。



タフィ・ローズ
2004年、近鉄バッファローズとの交渉決裂により、読売ジャイアンツに入団。



2005年4月26日の対東京ヤクルトスワローズ戦で、9回表にラミレスが放った左中間への打球を追わなかったことを弘田澄男に「緩慢プレー」と指摘されると、


激高して弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。


試合も敗れて、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると、「負けたのは俺のせいだと弘田さんが言った。



日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい? 



ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた。



クリス・レイサム
2003年に読売ジャイアンツに入団。


1死走者一・二塁でヤクルトの攻撃中、鈴木健のレフトフライを取った後に、アウトカウントを間違えて3アウトだと勘違いし、ボールをスタンドに投げ入れた。


このプレーにより二塁走者には2個の安全進塁権が与えられ、ヤクルトは同点に追いつき、先発投手の高橋尚成は完封を逃した。



エリック・ヒルマン
ロッテ退団後、年俸2億5000万円の2年契約で1997年に読売ジャイアンツへ移籍。



即座に左肩を故障し、1997年はわずか2試合の登板にとどまる。



この年に肩の手術を行い、翌1998年のキャンプで「肩に違和感がある」という理由で再度離脱。


その際に「左肩に小錦が乗っているようだ」と球史に残る迷言で弁明する。


その後も「肩に違和感」というフレーズを連発して登板拒否を繰り返し、「ミスター違和感」と呼ばれた。



二軍落ちしてからは練習もそこそこに切り上げ、昼には帰宅していたことから「昼マン」と揶揄される。



結局、この年は1度も登板せずシーズン途中で解雇となりました。



バルビーノ・ガルベス
1996年に巨人の春季キャンプに志願しテスト生として参加し合格。



いきなり16勝をあげ、最多勝利のタイトルを獲得しました。



1998年7月31日の阪神タイガース戦、球審の判定への不満が募り、長嶋茂雄監督が投手交代を告げた後、ベンチに退きかける途中に、


振り返って球審めがけてボールを投げ付けた。



残りのシーズンの出場停止、および巨人軍から「無期限出場停止及び罰金4000万円」という処分が下された。



ジェフ・マント
1996年に年俸1億5千万円で読売ジャイアンツに入団。


オープン戦で放った安打は僅か1安打。マントが記録した1打点はセンターへの犠牲フライ。



実況担当者は「さすがメジャーのパワーですね」とコメントしたが、解説者は「ほかの打者なら軽くスタンドに入っている」とバサリ。



あまりの低調ぶりに、渡辺オーナーは「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」と言い捨てた。



ダン・グラッデン
1994年、読売ジャイアンツに入団。


ヤクルト戦西村龍次の内角球がきっかけで乱闘騒ぎに。


内角球に激怒したグラッデンは西村に詰め寄り、ヤクルトの捕手中西親志が制止しようとしたがグラッデンが振り切り、


中西をキャッチャーマスクの上から殴り中西もグラッデンの顔面をミットで殴る等応戦し、本塁上で殴り合いとなる。



金属製のマスクの上から殴った上、手加減無しで中西にアッパーカットまで繰り出したせいか左手小指と右手親指を骨折し帰国。



この年で引退した。



ルイス・サンチェス
1986年の春季キャンプ期間中に読売ジャイアンツに入団。



恐ろしいほどの水虫の持ち主で、水虫はスパイクが履けなくなるほどに悪化し二軍落ちという経験があります。



チームメイトからはサンチェの靴下と一緒に洗濯してくれるなという悲痛なリクエストがあげられていたという。




クライド・ライト
1976年に来日。巨人軍で、初めてメジャーリーグ出身の外国人投手。



同点の場面で交代を告げられると、ベンチ裏のロッカーに戻るなり、ユニフォームをビリビリと切り裂き、


それを風呂の湯船の中に捨てたり、多摩川での練習にはほとんど参加しなかったりと、やりたい放題。


神宮でのヤクルト戦で乱闘騒ぎを起こし、退場。
そのまま帰宅してしまったため、退団させられました。



中日ドラゴンズ

マキシモ・ネルソン
2008年に中日ドラゴンズに入団。

2004年にドミニカ人グループが画策した偽装結婚疑惑に関与し解雇され、さらにビザ発給の永久停止処分を受けてアメリカから国外追放となった。


そのため、来日の際はアメリカへの入国自体を禁止されていたためアメリカを経由できず、ヨーロッパ経由で入国した。



2010年には、キャンプ地の沖縄から移動する際に那覇空港での手荷物検査の際に鞄から実弾が見つかり銃刀法違反容疑で逮捕された。


2011年現在、中日ドラゴンズに在籍中。
2011年の開幕投手を務めています。



千葉ロッテマリーンズ

ホセ・オーティズ
2008年5月4日、千葉マリンスタジアムでの西武戦で二塁守備時に栗山巧が打った一二塁間を抜けようかという打球にグラブを投げて止める「グラブ投げ付け事件」をおこす。

西武の黒江透修ヘッドコーチ(当時)はこのプレーについて「40年以上の野球人生で見たことがない」と発言している。



福岡ソフトバンクホークス

ケビン・ミッチェル
1995年に推定年俸4億円以上で福岡ダイエーホークスに入団。



シーズン開幕戦で、史上2人目の初打席満塁本塁打を放ち活躍が期待された。

しかし、シーズン途中で病気療養を理由に一時帰国した際、「無断帰国」と報じられるなど

、ミッチェルの名は「問題児」「不良外国人」のレッテルが貼られ世間に知られることとなった。



2度目の無断帰国をした8月にダイエーはミッチェルを即刻解雇しました。



ブラッド・ペニー
2012年に福岡ソフトバンクホークスに入団。



メジャーリーグのオールスター出場2度。ドジャース時代の06年最多勝。メジャー通算319試合119勝99敗。


日本では2012年4月4日楽天戦で先発した1試合、3回3分の1、7安打6失点で降板し、64球の投球だったが、試合後「右肩が痛い」と訴え、翌日には出場選手登録を抹消される。



すると、福岡市内の病院で検査を受け、異常なしとされたにも関わらず、7日にはそそくさとアメリカへ帰国、そのまま退団となりました。




阪神タイガース

ケビン・メンチ
2009年、阪神タイガースに入団。


シーズン前から、メジャー1の頭のサイズという触れ込みで注目を集めた。

オープン戦に入ると140キロ前後の速球にさえ対応出来ない弱点を露呈して、不振をきわめる。


同じく不振にあえいでいた横浜のジョンソンとどちらが先にヒットを打つかで話題になりました。


その後、一軍に復帰することはなく、夫人の出産に立ち会うため7月24日に帰国。


その帰国前に南信男からも「(メンチは)来年(も)いることはない」と発言され、再来日することなく11月6日に退団が正式発表された。



エステバン・ジャン
2007年、阪神タイガースに入団。



セットポジションでグラブをいったん停止させることができず、球団史上初の1イニング2ボークを記録。



8月にはNPB記録を塗り替える1シーズン12ボークを記録し、直後の打者へ死球を与え、危険球退場となってしまいました。

即座にジャンは二軍落ちとなり、「もうドミニカに帰りたい…」などと情けないコメントを吐露。


心中通りにその後一軍のマウンドに上がることはなく、2007年オフに解雇となりました。



イバン・クルーズ
2001年に阪神タイガースに入団。ファンやマスコミから「バースの再来」と騒がれた。



シーズン途中に左肩を負傷し、その後も試合に出場したものの状態は悪化。



左肩関節唇損傷と診断され治療のため帰国し、同年オフに解雇された。



2003年には中日ドラゴンズに入団。



2001年に所属した阪神と同様に打撃力不足に悩む中日でも「大砲」として期待された。



2001年同様オープン戦では活躍するも開幕後は成績を残せず、オフに退団。




エドゥアルド・ペレス
メジャー通算37本塁打の実績で2001年に阪神タイガースに入団。


同僚のイバン・クルーズが「バースの再来」と叫ばれる中、ペレスも「オマリーの再来」などと言われるが、春季キャンプで膝を故障し、



その後も「バッターボックスで間合いが全く取れていない」と指摘されるなど問題点が続出し、



100打席以上ホームランが出ないなど目立った活躍ができずに1年で阪神を解雇された。



トニー・タラスコ
2000年に阪神タイガースに入団。


オープン戦では本塁打を打った後に野村克也監督公認で試合を抜け、かつて夫人がバックダンサーをしていたマライア・キャリーのコンサートに行くなどし、余裕も垣間見られた。



しかし、打力の無い阪神が期待する程の成績は十分見せられず、同年限りで退団となり、帰国した。


打てなかった時期にバントヒットを狙ってアウトになった時には、解説者から「主砲不在のこのチームに、誰もバントヒットする助っ人なんか求めてない!」と言われた。



ダレル・メイ
1998年から1999年までの2年間、阪神タイガースでプレー。



1999年7月18日の対巨人戦では、1点ビハインドの6回表2死二塁で高橋由伸がファーストゴロを打った際、

ベースカバーに走ったが、ベースを踏んでないためにセーフとされ、抗議したメイは審判の胸を突き、暴力行為で退場となった。



抗議をしている間に二塁ランナーが生還してしまい、この失点が響いて阪神は2対3と競り負けた。


2000年から読売巨人軍に入団するが、

2000年6月7日の対阪神戦で元チームメイトの和田豊が3回続けて打席を外した際、和田に危険球を投げて問題になった



グリーンウェル
1997年に球団史上最高額の年俸3億円超という条件で阪神タイガースに入団。



しかし、シーズン前の春季キャンプ途中で背中の痛みを訴え一時帰国してしまい、再度来日したのは4月下旬。


5月11日の対巨人戦で自打球を右足甲に当て骨折すると、「野球を辞めろという神のお告げ」と突然引退を宣言し、5月16日には帰国してしまう。



ロブ・ディアー
1994年、阪神タイガースに入団。


外角低めの変化球をことごとく空振りして三振を量産した。

三振率は4割近い396。「2億7000万円の大型扇風機」と揶揄された。



打った本塁打の大半はデーゲームで、鳥目なのではないかという説もあった。



8月に右手親指靭帯断裂で帰国し、そのまま退団となった。

引退後指導者になった彼のセリフが「俺みたいなスウィングだけはするな」



セシル・フィルダー
1989年に阪神タイガースに入団。

同年9月14日の対巨人戦(東京ドーム)で、水野雄仁から三振を喫した際、腹いせに地面に叩きつけたバットが手に当たり骨折し一時帰国した。



ウィリー・カークランド
1968年に阪神タイガースに入団。

いつも、「爪楊枝」をくわえてプレーをする姿が当時人気のあった「木枯し紋次郎」に似ていることから「モンジロー」というニックネームでファンに親しまれた。




近鉄バッファローズ

ドン・マネー
1984年近鉄バファローズに入団。

あまりの待遇の悪さに、マネーは4月下旬「金は全額返すから、アメリカに帰らせてほしい」と退団を球団に申し出た。



住居に大量のゴキブリが出ることが決定的な原因となって、家族と相談した結果退団することを決めたという。



しかし、このように酷い待遇を受けていたにもかかわらず、退団会見では「球団に責任は全くない。すべて、この環境に慣れることができなかった私の責任だ」と殊勝に語った。



ラルフ・ブライアント
1988年のシーズン途中に中日ドラゴンズから近鉄バファローズに移籍。



本塁打王3回、1試合3本塁打8回、シーズン1試合3本塁打4回、シーズン最多三振など、今でも多くの人の記録に残る選手である。


1989年10月12日のダブルヘッダーで、奇跡の4打数連続本塁打で西武を倒した翌日のスポーツ紙にはこう記載された。



「エディ・マーフィにそっくりのブライアントがいるのではない。エディ・マーフィがブライアントに似ているのだ」




オリックス・ブルーウェーブ

トロイ・ニール
1995年にオリックス・ブルーウェーブに入団。



4番DHで先発登録されたニールは試合前から嘔吐に下痢、激しい腹痛に襲われ、1回裏に打順が回ってきたニールは仕方なくヨタヨタと辛そうに打席に入り、



「早く打席を終わらせたい」という一心でバットを適当に振り切ると打球は右翼席へ飛び込む2ランホームラン!



ホームベースよりもいち早くトイレに駆け込みたいニールは本塁打ながらも全力疾走でダイヤモンドを一周し、ベンチ裏へさっさと消えました。



ユニエスキー・ベタンコート
2014年に「メジャー80発男」の触れ込みでオリックスに入団。



主軸を期待されていたが、12試合で打率.106と低迷し、4月11日に登録を抹消される。



2度目の抹消以降は二軍戦にまったく出場しなかったり、練習にもきたりこなかったりするなどした。



その後、「右足親指滑液包炎」と診断され、

「米国でかかりつけの医師の診察を受けたい」という本人の希望を球団が受け入れ、アメリカへ一時帰国すると、

7月12日には怪我の原因である両足外反母趾の手術を受けることを発表。



7月22日、球団から契約解除を通告され、ウエーバー公示にかけられる。



ジェームス・ボニチ
1997年のシーズン途中、オリックス・ブルーウェーブに入団。



当初は育成目的での入団で二軍の試合に出場し続け、三冠王を獲得。背番号は59。

97年、一軍での成績は3試合出場で10打席2四球6三振。

翌98年も残留したが、二軍では好成績な一方で一軍にあがると9試合で11打席1四球4三振とまるで打てず。

無安打のままシーズン途中で解雇された。




阪急ブレーブス

ブーマー・ウェルズ
1983年に阪急ブレーブスに入団。

オリックス時代の1989年9月25日のダイエーホークス戦。



3回裏にホームランを放った門田博光をホームで出迎えた際のハイタッチで門田の右腕が脱臼した。

また、レフトスタンドを指差す「予告ホームラン」をし、見事レフトスタンドにホームランを打ったことがある。


ロベルト・バルボン
「日本は温かい国。キューバと気候はあまり変わらない」という代理人の言葉を鵜呑みにして、翌1955年に阪急ブレーブスに入団。1958年 - 1960年と3年連続の盗塁王に輝く。


外国人選手で盗塁王となっているのはバルボンとラリー・レインズの2人のみ。



阪急在籍時代初期、テレビで力道山の試合を見たバルボンは、

チームメイトに「こういう素晴らしい試合のことを日本では八百長と言うんだ」と嘘の知識を教えられたが、

バルボンは報道陣のいる前で「リキ、八百長」と言った。



後日、これを伝え聞いた力道山本人が怒鳴り込んできて、バルボンは謝罪した(事の顛末を聞いた力道山はバルボンと和解)。




東京ヤクルトスワローズ

ウラディミール・バレンティン
2011年に東京ヤクルトスワローズに入団。

2011年、2012年、2013年と3年連続でセリーグ本塁打王を獲得。
2013年には日本記録となるシーズン60本塁打を記録。

2014年1月にメリカ南部のフロリダ州で妻を無理やり部屋に閉じこめたとして、監禁などの疑いで逮捕されました。



エウロ・デラクルス
2009年にヤクルトスワローズに入団。

最速164キロを投げるドミニカ共和国出身の投手。

打席経験がなく、過去の安打経験はと聞かれた時の回答は「never(一度もない)」。




アーロン・ガイエル
2007年にヤクルトスワローズに入団。

打率は2割台前半なのに出塁率が4割を超えるという特殊な打撃成績に、「なぜバットを振らない打者に、投手は四死球を連発するのか。



それはガイエルが空間を歪めているからではないか」という“魔空間”操作説も浮上したことがある。


1イニング2死球の珍記録や、1試合3犠飛のプロ野球タイ記録を持っています。



2010年は打率.199だったが、出塁率はなんと.350。

惜しまれつつ2011年に引退しました。


レックス・ハドラー
1993年にヤクルトスワローズに入団。

1989年にヤクルトでプレーしたラリー・パリッシュと同様、「ゲテモノ食い」が有名。




オープン戦の明治神宮野球場でミミズを見つけたハドラーは、チームメイトを集め、「もし俺がこれを食べたらいくらくれる?」と話を持ちかけ、

「食えないだろう」とチームメイトが敬遠する中、

生きたミミズをそのまま踊り食い。




たちまちスポーツ紙で「ミミズ男」のあだ名をつけられる。

その後もアリ、セミなど奇食は続き、スポーツ紙の格好のターゲットとなっていた。


ラリー・パリッシュ
1989年にヤクルトスワローズに入団し、来日。

入団会見で好きな食べ物を聞かれて、「フロリダでは普通に食べるワニの肉だ」と答え、ワニを食べる男として話題になった。





ホアン・アイケルバーガー
1989年、春季キャンプでテストを受けヤクルトスワローズに入団。



ストッパーとして期待されたが、

この年4月9日の対巨人開幕第2戦(東京ドーム)で3対3で迎えた9回裏に来日初登板するも、無死満塁のピンチを作り、

原辰徳の打席で暴投によりサヨナラ負け、敗戦投手となる。結局5月20日に解雇された。球団史上最短の解雇選手となる。




当時の監督関根潤三がラジオにて、「名前がおもしろくて獲ったんだよねー、なんて言ったっけ?

開幕で暴投してすぐいなくなっちゃった」と発言している。



ジョー・ペピトーン
1973年ヤクルトアトムズに入団。


同年の6月30日の対中日戦ダブルヘッダー(神宮)の第2試合を欠場。

そのまま夫人(当時)との離婚裁判に出席を理由に無断帰国してしまい、解決後の8月8日に再来日。




しかし、それから10日少ししか経たない8月19日の対阪神22回戦(神宮)を最後に、

アキレス腱を痛めて勝手に自分のシーズンを『終了』してしまい、9月12日には治療名目で無断帰国した。



「球団指定日(3月15日)までに来日しないと解雇する」と最後通牒を突きつけられても来日せず、

さらにようやく連絡が取れた際、ペピトーンは前年来日時の荷物輸送料金と犬の空輸料金を要求。




横浜ベイスターズ

ケビン・ウィット
2005年、タイロン・ウッズの代役として、横浜ベイスターズに入団。


2004年は3Aで本塁打王に輝いており、左の大砲として大いに期待されたが、

日本では30打席目にしてようやく来日初本塁打を放つなど極度の不振に陥ってしまい、

その後も活躍の兆しが無いために二軍暮らしが続き解雇。


「日本の野球は難しかった」とだけ言い残して帰国しました。


スティーブ・コックス
2002年オフ、移籍金100万ドル・年俸275万ドルの3年契約で横浜ベイスターズに入団。


ところが、2003年の春季キャンプで右膝の外側半月板を損傷。

その後の回復が遅く、15試合の出場のみで今度はふくらはぎを痛めて二軍落ち。


でそのまま一軍に戻ることなく、膝の回復が思わしくないと判断されたこともあり、シーズン終了後に契約を2年残して解雇された。


横浜は全く戦力にならなかったコックスに対し、2年目の年俸及びオプション破棄の違約金も合わせて、総額で700万ドル以上を払うことになった。

当時、球団社長だった峰岸進はコックスの退団時に「授業料にしては高すぎた」とコメントしている。



北海道日本ハムファイターズ

シクスト・レスカーノ
1987年に横浜大洋ホエールズに入団。


「140km/hの速球が怖くなった。体力の限界」と言って現役引退を表明し、退団。


退団に際し、他球団に在籍する外国人選手から、

「彼が日本でプレーできないことは最初から分かっていた」や「ワールドシリーズを頭痛で欠場する奴が日本でやれるわけがない」といった声が聞かれた。



バール・スノー
1974年3月26日、貿易会社の社員として来日したついでに日本ハムファイターズの入団テストを受け入団。








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