【プロ野球】戦前のクレイジーレコードで打線組んだ
プロ野球・戦前の クレイジーレコードで 打線組んだ |
| 1(左).376 0本 7打点 |
| 2(中)通算1017打席22三振 |
| 3(右).286 1本 35打点 |
| 4(投)打点王&11勝5敗 0.93 |
5(一).333&1勝10敗 82回83失点 104被安打 66四球 WHIP2.06 |
| 6(遊).107 0本 4打点 |
| 7(二).162 出塁率.359 |
| 8(三)シーズン75失策 |
| 9(捕)1896年生まれ |
| 他投手 |
34勝11敗 0.73 46先発39完投19完封 432.2回 |
32勝22敗 1.01 71登板51先発44完投 541.1回 |
40勝17敗 1.19 66登板48先発41完投 527.1回 |
24勝4敗 0.81 24先発24完投7完封 244回196K |
42勝15敗 1.73 41先発38完投10完封 458.1回 |
| 一つずつ解説するよ |
| なお、基本的に戦前のプロ野球は極端な投高打低のため、 |
| 打者でのずば抜けた成績は見当たらない |
| だから打線に好記録よりも珍記録が並んでいるのは許してほしい |
| 1(左).376 0 7 |
| 1936年秋 中根 之(名古屋軍) |
| 記念すべきプロ野球初年度の首位打者 |
| 0HR7打点は寂しい数字に思えるが、 |
| 当時の28試合制と粗悪環境を鑑みれば仕方ない |
| 規定到達者59人中3割以上は6人であることからも傑出度は高く、外野守備も安定していた |
翌シーズンも3割を打つなどレギュラーを張っていたが、1938年に早々と引退 |
| パ・リーグ審判員として球界に関わるも、1963年の退場判定にファンからの脅迫文が殺到 |
| 身の安全のために休養を取ったのを最後に消息不明となっているが、 |
| 生まれが1910年なので既に亡くなっていると思われる |
| 2(中)通算1017打席22三振 |
| 杉田屋 守(イーグルス) |
| ハワイ出身の日系2世 |
| イーグルスで1937~1941まで5年間プレーした、絶対三振しないマン |
| 特に1938年は春期で122打席1三振、秋期で116打席2三振 |
当時は三振の少ない時代であったとはいえ、一度も2桁三振を喫した年が無い事は異常 |
| なお、通算成績は打率.217 出塁率.260 HR1本 7盗塁と |
| バットコントロールの割にすこぶる微妙 |
| 強肩外野手として、打撃よりも守備で評価された選手だった |
| 1941年には選手兼任監督に就任するも28勝56敗1分と奮わず、1年で辞任、引退した |
| 3(右).286 1本 35打点 |
| 1942年 呉 波(巨人) |
| 台湾出身選手で、読みは「ごは」。 |
| 一見して何の変哲もない成績だが、 |
| 実はこれがNPB唯一の2割台での首位打者 |
| 戦時中の物資不足の影響により粗悪なボールが使い回されていた影響により、 |
規定到達者の1/3が打率1割台という超打低の年であった |
| ちなみに翌年は3割(厳密には.2997)を打ち、2年連続で首位打者を獲得 |
| 同年に帰化して石井 昌征と改名 |
| 1946年には投手として14勝、戦後初のノーノーを達成している |
| 4(投)打点王&11勝5敗 0.93 |
| 1937年春 景浦將(タイガース) |
漫画あぶさんのモデルであり、 プロ野球の黎明期を支えた二刀流 |
| この年は野手として |
55試合190打数55安打2本47打点 打率.289 出塁率.440 |
| 投手として |
| 22試合7先発106.1回 11勝5敗0.93 |
| を記録した |
| ちなみに |
| 1936年秋には最優秀防御率と最高勝率 |
| 1937年秋には首位打者 |
| を獲得している |
5(一).333&1勝10敗 82回83失点 104被安打 66四球 WHIP2.06 |
| 1936年秋 桜井七之助(大東京) |
| 大東京軍の開幕投手 |
| 最速140kmのストレートを武器とする、当時としてはなかなかの速球派 |
しかし逆に言えばそれだけで、変化球も無くコントロールも無かった |
チームの守備が崩壊していた為、自責点は48(防御率5.20)で収まったものの、 規定到達でのWHIP2.06はプロ野球ワースト記録 |
ちなみに同シーズンの打撃では15試合で.333を記録 |
翌年も2勝8敗で防御率5.30と改善が見られなかったため、野手へ転向 |
| ファーストに定着してからは守備も上手で人気があったらしい |
| 6(遊).107 0本 4打点 |
| 1938年春 山田潔(イーグルス) |
当時17歳でイーグルスに入団したルーキーが記録 |
| 松山商業で甲子園を制覇、優勝チームのショートとして期待されたものの、大きくプロの壁にぶつかった |
.107は規定打席到達者のプロ野球最低打率 |
| HRはおろか長打すら打てず、悪循環にはまったのかバントすら一度も決めることが出来なかった |
| 7(二)・打率.162 出塁率.359 |
| 1942年 山田潔(大和軍) |
| 4年後、山田は実に奇妙な選手に変貌していた |
率を諦めて選球眼に特化すると、毎年打率は1割台ながらも倍近い出塁率を記録 |
1940年には1試合16守備機会の現在も破られていない日本記録を樹立するなど、 守備も成長しレギュラーを獲得した |
1942年は大和軍へ移籍すると、 410打席で55安打ながら95四球 |
| シーズンのIsoD(出塁率-打率).197は、1974年の王が記録する.199に次ぐプロ野球第2位の数字である |
| とはいえHRバッターで警戒される王に対し、山田は同年のHRが0本。 |
四球の殆どをカットを重ねてもぎ取ったであろう事から、この数字の異常性が窺える |
| なお、カット技術を完全にマスターした山田は36歳までプレー |
| その後は70年代まで大洋や広島の内野守備コーチを務めた |
| 通算1334試合3980打数789安打8本塁打739四球 |
| 通算打率.198、通算出塁率.326 |
| 8(三)シーズン75失策 |
| 1940年 柳 鶴震(セネタース) |
プロ野球シーズンワーストのエラー記録を持つ選手 |
| 2017年ソフトバンクがシーズン38失策なので、球団2年分の失策を一人で犯してしまった |
ちなみに前年もリーグワーストの66エラーを記録 |
| あまりの守備難に1941年には出場機会が減少 |
| 1942年にはサードにコンバートされるも、案の定と言うべきか50エラー |
通算打率.208、2HRと守備に目をつぶるほどの打撃があったとも言い難いが、 |
| 人材不足だったのか、現役5年間で3球団を渡り歩いている |
ちなみに柳 鶴震は登録名で本名は大塚 鶴雄 |
| 今年で100歳を迎えますが存命されています |
| 名物になってそう |
| 9(捕)1896年生まれ |
| 岡田源三郎(金鯱) |
| NPB史上唯一の19世紀生まれの選手 |
早稲田実業で第1回夏の甲子園に出場しベスト4入り |
| その後明治大学監督として実績を積み、プロ野球発足と共に金鯱軍の選手兼初代監督に就任した |
選手としての初出場は41歳で迎えた1937年春 |
| 主にバックアップの捕手として通算24試合に出場、52打数15安打0本の成績だった |
・34勝11敗 0.73 46先発39完投19完封 432.2回 |
| 1943年 藤本英雄(巨人) |
| シーズン防御率0.73、19完封はプロ野球記録 |
翌年には人員不足により、こちらもプロ野球記録となる最年少の25歳で監督に就任 |
2年間選手と兼任した後は選手に専念 |
1955年の唯一の登板にて200勝を達成した |
・32勝22敗 1.01 71登板51先発44完投 541.1回 |
| 1942年 林安夫(朝日) |
| 現代ではおよそ想像すら及ばない |
| 常軌を逸した酷使がもたらしたクレイジーレコード |
ちなみに翌年の成績は 20勝11敗 0.89 294回 |
| やや酷使が和らいだように見えるが、これは途中で病欠があったため |
| それでも防御率が前年から良化しているのが理解に苦しむところ |
| 1944年に戦死、僅か2年間の選手生活であった |
これほど太く短い選手生命は世界でも存在しないはず |
・40勝17敗 1.19 66登板48先発41完投 527.1回 |
| 1942年 野口二郎(大洋) |
| 前述の林に隠されているが、同年に存在したもう一人のバケモノ |
| 勝利数40、完封数19、WHIP0.77は林を上回っている |
ちなみに5月23日には9回途中までノーノーを継続するも、ライバル林にヒットを許して達成ならず |
また、打撃では1946年に出場31試合連続安打を記録するも、 投手であったため連続出場しておらず、3年間誰も気付かなかったという |
| 通算237勝を挙げたレジェンドであるが、どこか記録では割を食っている選手 |
| むしろ野口二郎の影に林安夫が隠れてるイメージだが |
| そうなのか |
珍記録好きだから林の方しか知らなかった |
・24勝4敗 0.81 244回196K 24先発24完投7完封 |
| 沢村栄治(1937年春) |
| 伝説の投手による沢村賞制定の礎となった記録 |
| 何と言っても先発全試合での完投が目を引く |
ちなみに奪三振率7.23は低く見えるが、当時のリーグ平均は3.91 |
あの剛腕スタルヒンでさえ5.63であるため、その異常ぶりが分かる |
なお、このシーズンは打撃でも 108打席で.276を記録 |
| 文句無しのMVPであった |
悲しいなあ |
・42勝15敗 1.73 41先発38完投10完封 458.1回 282K |
1939年 ヴィクトル・スタルヒン(巨人) |
42勝は1961年の稲尾と並ぶプロ野球シーズン最多勝記録であるが、 厳密には40勝 |
| 当時の記録員の判断を尊重した結果である |
| 翌年も38勝で16完封、防御率0.97を記録している |
ちなみに191cmの剛速球投手であるが、 本人はシュートやドロップ、シンカーも多用して打たせて取る投球を心がけていたらしい |
| 現役最後の1955年には7勝21敗と衰え切っていたものの、何とか通算300勝を達成し |
| しえん |
| 以上です |
| 昔のプロ野球は調べるとのめり込むね |
| なんか本読んだん? |
| いや、某プロ野球全試合スコアサイトを眺めてたら楽しくなった |
| なるほど |
| おもろい記録やから目を惹くわな |
| じゃあもう一個 |
| ・年間チームHR数0 |
| 1936年 大東京軍 |
| 春夏期・秋期、計42試合で0本 |
| なお春夏期は14試合で0勝13敗1分 |
| 秋期は5勝21敗2分 |
| どちらも圧倒的最下位であった |
| 昔ってクソ狭い球場ばかりやないの? |
| ボールもバットも粗悪過ぎて飛ばない |
| お疲れやで |
| 1967年 2試合 0勝0敗 0.00 |
| 1968年 5試合 0勝1敗 5.14 |
| 1969年 3試合 0勝1敗 5.40 |
| 1970年 10試合 0勝0敗 3.46 |
1971年 43試合 10勝6敗 1.71 最優秀防御率 ノーヒットノーラン達成 |
1972年 17試合 0勝0敗 6.75 |
| 1973年 25試合 0勝1敗 3.09 |
1974年 4試合 0勝1敗 11.25 |
| 引退 以降消息不明 |
| 戦前じゃないけどこれも異質ですこ |
| おは藤本 |
| 今何してるんや |
| 藤本和宏さんか |
| 逆に怖いね |
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